2009年 11月 21日
日韓「歌謡交流」(3) 孫牧人=久我山明 |
若い人たちには、またまた、古い歌の話で恐縮ですが、「カスバの女」という歌があります。
私が、はじめて、その歌を聴いたのは、1970年のころです。
バイトの金ができると、ときどき、京都「四条大和大路下ル」にあった、バーに飲みに行くことがありました。
ふところ具合に応じて、サントリーの「角瓶」か「ホワイト」のロックをひとり飲んでいました。
10人も入れないカウンターだけの狭い店の隅に、ジュークボックスが置かれていました。
そこで、はじめて、客のだれかが50円玉ひとつでかけた、緑川アコの「カスバの女」を聴きました。
ちょうど、1970年は、「大阪万博」の年。
にぎやかで浮かれた空気が日本を覆っていましたが、そこからこぼれていくような、いささか退廃的で乾いた空気も、同時に、社会のそこかしこに、よどんでいたような気がします。
いえ、そのふたつの空気は、わたしのなかでも、混じり合って在ったような気もします。
その時代を生きているのに、ちょっとすねてもみるというような感じです。
緑川アコ「カスバの女」(↓ 緑川アコの音源が削除されたので、キムヨンスクの歌です。)
「カスバの女」は、1955年、「月がとっても青いから」が大ヒットしたころに発表されていた曲でした。
「エト邦枝」という歌手がうたったそうです。
作詞は「連絡船の唄」を書いた「大高ひさを」です。
そして、作曲は「久我山明」。
それから15年後、私は、緑川アコのカバーで、この曲を知ったわけでした。
彼女の、突き放すような、乾いた唄い方が、つよく耳に残ったのでした。
そして、その歌詞も、いきなり「ここは地の果て アリジェリア」ですから、印象深かったなあ。
さて、後年、この歌の作曲者「久我山明」が、韓国人「孫牧人 손목인 (ソンモギン)」であるということを知りました。
ソンモギンさんは、1913年、慶尚南道晋州生まれ。朝鮮で大ヒットした代表曲に、「타향살이 他郷暮らし」(1934年)、「목포의 눈물 木浦の涙」(1935年)などがあります。
(↑孫牧人(ソンモギン))
朝鮮にあったテイチク系のオーケーレコードの専属作曲家として戦前から日本と韓国のあいだを往き来し、戦後の一時期は日本を拠点に作曲活動をしていたそうです。そのころ、東京の「久我山」に住んでいたので、そこから日本名をつくったとのことです。
「カスバの女」をあらためて聴くと、その歌詞は、日韓の歴史のうねりのただなかを生きた、ソンモギンさんの人生の「暗喩」のようにも読めますね。
ソンモギンさんは、1999年、東京のホテルに夫人とともに滞在中、病気で死去したといいます。
ほんとうに、「あいだ」を生きぬいたかただったんですね。
BoAが、東方神起が、BigBangが、日本のポップスシーンの「日常」として存在し、中島美嘉が、SMAPが、韓国のポップスシーンの「日常」として存在している、「いま」を、菅原都々子さん、張世貞さん、孫牧人さんらは、きっと微笑んで見守ってくれているのでしょうね。
では、最後に、2009年11月に、日本の音楽番組に出演したBigBangの「声をきかせて」(↓)をご覧になってみてください。
「…声をきかせて 歩いてきた道は 僕たちにとってきっと 大切なステップさ その未来への…」
そう、日韓の「歌謡交流」という「道」も、そのとおりだねと、つぶやいてる私です。
私が、はじめて、その歌を聴いたのは、1970年のころです。
バイトの金ができると、ときどき、京都「四条大和大路下ル」にあった、バーに飲みに行くことがありました。
ふところ具合に応じて、サントリーの「角瓶」か「ホワイト」のロックをひとり飲んでいました。
10人も入れないカウンターだけの狭い店の隅に、ジュークボックスが置かれていました。
そこで、はじめて、客のだれかが50円玉ひとつでかけた、緑川アコの「カスバの女」を聴きました。
ちょうど、1970年は、「大阪万博」の年。
にぎやかで浮かれた空気が日本を覆っていましたが、そこからこぼれていくような、いささか退廃的で乾いた空気も、同時に、社会のそこかしこに、よどんでいたような気がします。
いえ、そのふたつの空気は、わたしのなかでも、混じり合って在ったような気もします。
その時代を生きているのに、ちょっとすねてもみるというような感じです。
緑川アコ「カスバの女」(↓ 緑川アコの音源が削除されたので、キムヨンスクの歌です。)
「カスバの女」は、1955年、「月がとっても青いから」が大ヒットしたころに発表されていた曲でした。
「エト邦枝」という歌手がうたったそうです。
作詞は「連絡船の唄」を書いた「大高ひさを」です。
そして、作曲は「久我山明」。
それから15年後、私は、緑川アコのカバーで、この曲を知ったわけでした。
彼女の、突き放すような、乾いた唄い方が、つよく耳に残ったのでした。
そして、その歌詞も、いきなり「ここは地の果て アリジェリア」ですから、印象深かったなあ。
さて、後年、この歌の作曲者「久我山明」が、韓国人「孫牧人 손목인 (ソンモギン)」であるということを知りました。
ソンモギンさんは、1913年、慶尚南道晋州生まれ。朝鮮で大ヒットした代表曲に、「타향살이 他郷暮らし」(1934年)、「목포의 눈물 木浦の涙」(1935年)などがあります。
(↑孫牧人(ソンモギン))
朝鮮にあったテイチク系のオーケーレコードの専属作曲家として戦前から日本と韓国のあいだを往き来し、戦後の一時期は日本を拠点に作曲活動をしていたそうです。そのころ、東京の「久我山」に住んでいたので、そこから日本名をつくったとのことです。
「カスバの女」をあらためて聴くと、その歌詞は、日韓の歴史のうねりのただなかを生きた、ソンモギンさんの人生の「暗喩」のようにも読めますね。
ソンモギンさんは、1999年、東京のホテルに夫人とともに滞在中、病気で死去したといいます。
ほんとうに、「あいだ」を生きぬいたかただったんですね。
BoAが、東方神起が、BigBangが、日本のポップスシーンの「日常」として存在し、中島美嘉が、SMAPが、韓国のポップスシーンの「日常」として存在している、「いま」を、菅原都々子さん、張世貞さん、孫牧人さんらは、きっと微笑んで見守ってくれているのでしょうね。
では、最後に、2009年11月に、日本の音楽番組に出演したBigBangの「声をきかせて」(↓)をご覧になってみてください。
「…声をきかせて 歩いてきた道は 僕たちにとってきっと 大切なステップさ その未来への…」
そう、日韓の「歌謡交流」という「道」も、そのとおりだねと、つぶやいてる私です。
by t_arirang
| 2009-11-21 20:12
| 音楽
|
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