青森の旅(9)青函連絡船 |
青森旅行もいよいよ最終日(4日目)。天気予報によれば、午後から雨とのこと。1日目の、奥入瀬渓流の散策をした日をのぞき、最後まで、雨がちの旅だった。まあ、何ごともなくここまで来れたのだから、よしとしよう。
最終日は、青森市内の定番コース、三内丸山遺跡、青森県立美術館、そして、「ねぶたの家」を回った。青森ねぶたを展示している「ねぶたの家」を出ると、目の前に青森駅の長いホームと、その先に保存されている青函連絡船「八甲田丸」が見えた(↓ 橋の向こうの黄色い船体が「八甲田丸」。クリックして拡大で見てください。何と、煙突には”JR”ではなく”JNR”の文字!! 意地を感じさせてくれます。船の左手には、青森駅や連絡船通路も見えると思います)。
青函トンネル開通(1988年)までは、あのホームのうえを連絡船の乗降客がたくさん行き来していたのだろう。「上野発の夜行列車 降りたときから 青森駅は雪のなか~」の時代だ。しかし、青函連絡航路の廃業とともに、青森駅は本州と北海道を結ぶ「玄関口」でなくなり、さらに東北新幹線が八戸から青森へと延伸されたものの(2010年)、新幹線駅は青森駅ではなく「新青森」駅につくられた(今回はじめて知った)。私が子供の頃、社会科で覚えた「東北本線」「奥羽本線」の始発終着・青森駅……かつて上野行きの寝台特急や急行がとまっていたはずの長いホームには、それに見合わぬ2両編成の列車が申し訳なさそうに停まっているだけだ。旧・東北本線の青森から三戸のあいだは第三セクター「青い森鉄道」となった。その列車のようだった。
思えば、青函トンネル開通=青函連絡航路の廃止(1988年)は、国鉄民営化(1987年)と時を同じくする。このころから、社会の全領域に「市場原理主義」が急速に貫かれていった。社会を維持するために必要不可欠な「社会的共通資本」(*)までが市場化され、その主義(イデオロギー)によってその維持コストには「無駄」の烙印が押されるようになったのだ。そんなことを思うと、いま目の前にある青森駅と旧連絡船埠頭のうらぶれた姿は、市場原理主義によって「食い散らかされたあと」のように見える。おカネとそれを動かす人は、吸いとるものを吸いとったら、あるいは吸いとれないと見限ったら、つぎの利潤を追って、何のためらいもなく去っていく。しかし、人の暮らし(生業)、街、文化はそういうものではない。その矛盾が、あの光景となっているのだ。旧連絡船埠頭に係留され観光施設となっている八甲田丸と、2日まえ、十和田湖で見た、放置されたままの遊覧船とが重なってくる。私の住む神戸の、あのうらさびしい新港地区の姿もまた、70年代に進められた港湾労働の「合理化」、もっとはっきりと言えば、労働者の「「首切り」と無縁のものではない。農地も、鉄路も、港も、街も、荒れていく。
*社会的共通資本…経済学者、故・宇沢弘文の提唱した分析概念。「大気、森林、河川、水、土壌などの〈自然環境〉、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなどの〈社会的インフラストラクチュアー〉、そして教育、医療、司法、金融、金融制度などの〈制度資本〉」の総体をいう。
こんなことをふと思ったのは、その直前に、三内丸山遺跡を見学したことも関係している。その縄文集落に現代人のファンタジー(「自然との共生」「持続可能な社会」などなど)を投影する向きもあるようだが、その場所に立って私が抱いたものは「それでも終わりがあるのだ」という感慨だった。そして、その「終わっていく時代」のなかで、ひとり一人が、また小集団がそれぞれ何を考え、それぞれどう行動したのか、というようなことを思ってもみた。「去るも地獄、残るも地獄」というような悩ましい期間が相当長く続き、最終的にその集落は消えたのではないか。資本主義は成立してたかだが300年くらいにすぎないが、その社会変化の急激さは、また滅びの急激さともなる。少なくとも、そのほころびは、日本各地に、社会の仕組みにあらわれているところだろう。しかし、
長々と書き続けてきた「青森の旅」は、今回で終わります。旅行記になりませんでした。すみません。最後にしつこいですが、津軽三味線をまた…。高橋竹山の即興曲「岩木」。青森の山もすっかり変わった、「鳥がいなくなった」という語りが冒頭にあります。録音は1994年、御年85、この語りのユーモア。計算でなく存在からにじみ出てくるもの……。
(おわり)