2012年 11月 03日
大岡昇平、そして父のこと(2) 召集まで |
「出征」…「軍隊に加わって戦地に行くこと」(大辞泉)
「出征」の「征」は「征服する」の「征」だから、「出征」とは字義的には、「戦地に行く」というようなニュートラルの意味よりは、「敵を伐ち(討伐)に行く」という自己を正義とする意味になるだろう。
しかし、多くの一般兵士の意識において、「出征」はやはり「大辞泉」の言うように「戦地に行くこと」の意味であったろうし、また「死地に近づくこと」をも意味しただろう。
大岡昇平の「出征」までの道のりを簡単にまとめると、次のようになる。
1929年4月 京都帝国大学文学部入学。フランス文学を学ぶ。スタンダールに傾倒。
東京の成城高校のとき、小林秀雄や中原中也と交遊があったが、中原が大岡を頻繁に訪ねてくるので、それをうるさく思った大岡は京都へ逃れたという。(大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』)。
1938年10月 帝国酸素(神戸、フランス資本)に入社。翻訳業務にあたる。
「とにかく世の中が変わってくる(1937年7月、日中戦争)。スタンダールじゃ食っていけないということがわかったんだ。かといって変な「銃後のなんとか運動」なんて器用なこともできないからね。それで会社員になって帝国酸素へ入ったの。フランス資本の会社で、月給は百二十円くれたよ。」(『二つの同時代史』)
「帝国酸素」は、大岡がうえで述べているように、もともとはフランスの「レール・リキード社」の日本法人。
英語だと、「エアー・リキッド」となる。鉄板を切断する資材となる産業用のガス(液体酸素)などをつくる会社だった。
1930年、戦時統制の圧力か、あるいは会社自身の判断かで、住友資本と共同出資で「帝国酸素」という会社を設立し、社名を変更した(大岡昇平『酸素』、新潮文庫絶版)。
1939年10月 「帝国酸素」に入社した大岡は職場結婚する。式は挙げていないそうだ。
埴谷雄高との対談をまとめた『二人の同時代史』(岩波現代文庫、2009年)では、埴谷が「どういうふうに口説いたの?」と突っ込んでいておもしろい。
大岡「どういうふうにって…まあ、どこでもお茶を汲んでくれるからね、接触の機会はある(笑)。あとは帰りに喫茶店に誘えばいいわけで、いまと同じだよ。」
埴谷「ほほう、やはりそういう常套手段だったの。新手はないんだなあ」
埴谷「デートは、なかなかいいところがあるらしい神戸のどこへ行ったの?」
大岡「生田と風見鶏のほうへ行ったよ。…ほかに須磨へ泳ぎに行ったこともあったな。」
「帝国酸素」本社が入居していた、もと「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現在のシティバンク)神戸支店」ビルは、現在も、そのまま残っている。一階が銀行、二階がドイツ系企業、三階が帝国酸素の事務所だったという。
写真正面が、そのビル。
右手後ろの白い大きな建物は、大丸神戸店。
大丸に接した裏手(浜側)、東南角に位置する。
ヴォーリズ建築事務所の設計とのことだ。1929年に竣工した。
シティバンクも、満州事変(1931年)のまえの時期であり、将来の日米戦争を予想していなかったということだろう。
ヴォーリズは、同じ時期に、関西学院(1929年)、神戸女学院(1931年)も設計している。
そういえば、斉藤和義が「メトロに乗って」でうたった、東京神田の「山の上ホテル」(旧館)もヴォーリズによるものらしい。
1941年12月8日 日米開戦。
埴谷「あのとき(対米英開戦)のことをいろんな人が思い出して書いているのを読むと、非常にすっきりしたとかいうのが多いんだけど…」
大岡「ぼくはちっともすっきりなんかしやしない。もうこれでほんとうにだめになったと思ったよ。兵隊に引っぱり出されて死ぬしかない、というあきらめが先に立ったな。…会社へ行くと、みんな、いよいよでんなとかぼそぼそ言うくらいで月給とりはだれもそれほど喜んじゃいないですよ。さっぱりしたとかなんとかいうのは、物を書いてるやつだけでね。…昼休みに元町通でラジオを聞いていると、本音が顔に出ちゃってね、みんなゾッとした顔をしていたよ。」
1943年11月 帝国酸素を退社していた大岡は、川崎重工業に入社。
1944年2月 川崎重工業東京事務所勤務となる。
1944年3月 本籍地を東京に残していた大岡は東京で教育召集をうけ、近衛連隊に入隊する。
大岡の出征については、次回にふれたい。
ところで、うえに述べた「ナショナルシティーバンク」ビルは、じつは、私の父ともゆかりがあった。
父が亡くなるちょうど一年くらいまえ(1999年)、神戸の海岸通のほうにある料理屋に行ったことがある。
父の誕生祝いだったか。
その帰り道、元町駅のほうへぶらぶらと歩いて、ちょうど大丸近くに来たとき、交差点を渡りざま、父が突然こう言った。
「引き揚げてきたすぐあと、このビルで働いていたことがあるんだよ」。
〈そうか、敗戦後、父はここで働いていたのか〉と、いまは「コムデギャルソン」の入居しているビルを見て、ちょっと不思議な気分になった。
日米開戦後、アメリカ資本のそのビルは、川崎重工業の事務所ビルになったらしい。それで、復員後、「K重工業」に復帰した父はそのビルで働いていたわけだ。
父の、大岡昇平との「小さな接点」だ。
現在、もとナショナルシティーバンクビルは、「旧居留地38番館」とよばれる大丸の店舗になっている。
こんど元町方面へ行ったら、38番館のなかにあるティールームにでも入ってみようかな。
「出征」の「征」は「征服する」の「征」だから、「出征」とは字義的には、「戦地に行く」というようなニュートラルの意味よりは、「敵を伐ち(討伐)に行く」という自己を正義とする意味になるだろう。
しかし、多くの一般兵士の意識において、「出征」はやはり「大辞泉」の言うように「戦地に行くこと」の意味であったろうし、また「死地に近づくこと」をも意味しただろう。
大岡昇平の「出征」までの道のりを簡単にまとめると、次のようになる。
1929年4月 京都帝国大学文学部入学。フランス文学を学ぶ。スタンダールに傾倒。
東京の成城高校のとき、小林秀雄や中原中也と交遊があったが、中原が大岡を頻繁に訪ねてくるので、それをうるさく思った大岡は京都へ逃れたという。(大岡昇平・埴谷雄高『二つの同時代史』)。
1938年10月 帝国酸素(神戸、フランス資本)に入社。翻訳業務にあたる。
「とにかく世の中が変わってくる(1937年7月、日中戦争)。スタンダールじゃ食っていけないということがわかったんだ。かといって変な「銃後のなんとか運動」なんて器用なこともできないからね。それで会社員になって帝国酸素へ入ったの。フランス資本の会社で、月給は百二十円くれたよ。」(『二つの同時代史』)
「帝国酸素」は、大岡がうえで述べているように、もともとはフランスの「レール・リキード社」の日本法人。
英語だと、「エアー・リキッド」となる。鉄板を切断する資材となる産業用のガス(液体酸素)などをつくる会社だった。
1930年、戦時統制の圧力か、あるいは会社自身の判断かで、住友資本と共同出資で「帝国酸素」という会社を設立し、社名を変更した(大岡昇平『酸素』、新潮文庫絶版)。
1939年10月 「帝国酸素」に入社した大岡は職場結婚する。式は挙げていないそうだ。
埴谷雄高との対談をまとめた『二人の同時代史』(岩波現代文庫、2009年)では、埴谷が「どういうふうに口説いたの?」と突っ込んでいておもしろい。
大岡「どういうふうにって…まあ、どこでもお茶を汲んでくれるからね、接触の機会はある(笑)。あとは帰りに喫茶店に誘えばいいわけで、いまと同じだよ。」
埴谷「ほほう、やはりそういう常套手段だったの。新手はないんだなあ」
埴谷「デートは、なかなかいいところがあるらしい神戸のどこへ行ったの?」
大岡「生田と風見鶏のほうへ行ったよ。…ほかに須磨へ泳ぎに行ったこともあったな。」
「帝国酸素」本社が入居していた、もと「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現在のシティバンク)神戸支店」ビルは、現在も、そのまま残っている。一階が銀行、二階がドイツ系企業、三階が帝国酸素の事務所だったという。
写真正面が、そのビル。
右手後ろの白い大きな建物は、大丸神戸店。
大丸に接した裏手(浜側)、東南角に位置する。
ヴォーリズ建築事務所の設計とのことだ。1929年に竣工した。
シティバンクも、満州事変(1931年)のまえの時期であり、将来の日米戦争を予想していなかったということだろう。
ヴォーリズは、同じ時期に、関西学院(1929年)、神戸女学院(1931年)も設計している。
そういえば、斉藤和義が「メトロに乗って」でうたった、東京神田の「山の上ホテル」(旧館)もヴォーリズによるものらしい。
1941年12月8日 日米開戦。
埴谷「あのとき(対米英開戦)のことをいろんな人が思い出して書いているのを読むと、非常にすっきりしたとかいうのが多いんだけど…」
大岡「ぼくはちっともすっきりなんかしやしない。もうこれでほんとうにだめになったと思ったよ。兵隊に引っぱり出されて死ぬしかない、というあきらめが先に立ったな。…会社へ行くと、みんな、いよいよでんなとかぼそぼそ言うくらいで月給とりはだれもそれほど喜んじゃいないですよ。さっぱりしたとかなんとかいうのは、物を書いてるやつだけでね。…昼休みに元町通でラジオを聞いていると、本音が顔に出ちゃってね、みんなゾッとした顔をしていたよ。」
1943年11月 帝国酸素を退社していた大岡は、川崎重工業に入社。
1944年2月 川崎重工業東京事務所勤務となる。
1944年3月 本籍地を東京に残していた大岡は東京で教育召集をうけ、近衛連隊に入隊する。
大岡の出征については、次回にふれたい。
ところで、うえに述べた「ナショナルシティーバンク」ビルは、じつは、私の父ともゆかりがあった。
父が亡くなるちょうど一年くらいまえ(1999年)、神戸の海岸通のほうにある料理屋に行ったことがある。
父の誕生祝いだったか。
その帰り道、元町駅のほうへぶらぶらと歩いて、ちょうど大丸近くに来たとき、交差点を渡りざま、父が突然こう言った。
「引き揚げてきたすぐあと、このビルで働いていたことがあるんだよ」。
〈そうか、敗戦後、父はここで働いていたのか〉と、いまは「コムデギャルソン」の入居しているビルを見て、ちょっと不思議な気分になった。
日米開戦後、アメリカ資本のそのビルは、川崎重工業の事務所ビルになったらしい。それで、復員後、「K重工業」に復帰した父はそのビルで働いていたわけだ。
父の、大岡昇平との「小さな接点」だ。
現在、もとナショナルシティーバンクビルは、「旧居留地38番館」とよばれる大丸の店舗になっている。
こんど元町方面へ行ったら、38番館のなかにあるティールームにでも入ってみようかな。
by t_arirang
| 2012-11-03 14:36
| 父たちの戦争
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